
次の方を対象にしています!
- 書籍「冒険の書 AI時代のアンラーニング」の内容が知りたい
- 教育について考えたい
- 学校がつまらない理由が知りたい
「冒険の書 AI時代のアンラーニング」 を参考に説明します。
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冒険の書 AI時代のアンラーニング 要約|解き放とう。まとめ
ある冒険者のお告げ
社会を変えるためには教育を変える必要があった。すべての人に世界のあらゆることを教え、立派な人間に育てる。世界図絵の著者コメニウスのこのご宣託が現代につながる教育のルーツになっている。
そして、その宣託を忠実に守っているのが学校だ。しかし、今、学校の存在が様々な問題を生み出す原因にもなっている。学校はこのままでもいいのか。変えるべきなのか。そもそも学校とはなんなのか。
学校が何かを調べることにした。
300年続く呪文
もともと利己的である人間は、放っておくと自分の利益のために争い続ける。
そう直感したホッブズさんは自分は「恐怖との双生児」であり、「母は恐怖と一緒に自分を産んだ」と記した。
彼の呪いは300年たった今も生きている。その影響を最も受けているもののひとつが学校だ。そして、その学校にはとんでもない秘密が隠されていた。
パノプティコンの憂鬱
権力が自動化されたシステム、パノプティコン。これがフーコーさんが教えてくれた学校の正体だった。
そこは今ある秩序を支えるべく、生徒に自ら服従するよう巧妙にできている。
学校は3つの目的が合体した場所だ。
- ちゃんと食べていける労働者になるための技能の訓練
- 社会の一員として規律を守る人間になるためのしつけ
- 良い人格を持つ立派な人間づくり
いつの間にかテストの点が良かった、悪かったが、なぜか成績が優秀な方が悪い人より偉い、という上下関係になった。それがキッカケで「学力が低い=おちこぼれ」のように扱われ「規律を守らない=態度が悪い」とレッテルをはられ、煙たがられたり、いじめられたりする。学校が3つの目的が合体した場所だから起きる。
それにより社会は、素人よりも専門家がえらいという風になっている。
子どもたちを今の社会に合わせるようにするのではなく、子どもたちが現状を変えていけるように、現状から解放されるような教育をしていくべき。
再発明されるべき発明
子どもと大人が一緒に学べない理由。それはランカスターさんが発明した「クラス」やウィルダースピンさんの「学年」というシステムにあった。
教育を受けさせるために考えられたのは、最初に教える生徒と教わる生徒に別れ、教えを受けた生徒は、次の生徒に教える側にまわるというもの。生徒は学力別にグループ分けされ、これを「クラス」と呼んだ。これを流れるように行うことで、もはや工場の効率化のように教育が行われた。
さらに効率化しようと階段状のところに数十人の生徒を座らせて、教師が教える「ギャラリー型」だ。このような方法が今も受け継がれている。
縛りを解き放て
幼児期、青年期、成人期などのライフステージという考え方がある。それぞれの段階の特徴にそって生きるよう社会から求められていることにすら気づかないように、それを拒むことができなくなっている。
子どもと大人が一緒に学べる場所があっていいし、ライフステージという壁も壊していい。それは僕たちが人生の過ごし方を変えることにほかならない。
こういう気付きを得ると今までの「あたりまえ」が不思議に思えてくる。
スローな学びにしてくれ
早熟の天才という言葉があるように、早いうちから極めることが社会全体でもてはやされている。
それどころか「早く始めないとダメだ」と言って、大人たちは子どもたちをせかしたりする。でも、それは「早まった一般化」でしかない。
人生は100年もあるのに、その中のたった数年、ちょっと早くはじめたからといって、どれだけ意味があるのだろうか。学びの楽しさや喜びを知るなら「遅い学習」でいいんじゃないかな。
基礎という神話
基礎や応用を気にするより「自由に遊んでいる中で、気がついたらマスターしてしまっている」という状態が理想です。楽しいから長続きします。
「基礎」という考え方は、学びを「型」にはめてつまらなくしてしまっている。それなのに僕たちは「基礎は大事」という、もっともらしい言葉で思考停止に陥っている。
「基礎」にとらわれる必要なんかない。学びはもっと自由でいいし、もっと楽しくあるべきだ。
失敗する権利
僕たちは失敗したくなくて、正解を求めてしまう。正解を求める勉強ばかりしてきたからだ。
物事には正解があって、それを答えられれば優秀だと思いこんでいる。しかし、複雑な世界にこれだという正解はない。
大事なことは失敗を「避けるべきマズいもの」と考えることをやめ「成功するためにとても大事な学びのプロセス」ととらえること。
それをさらに進めて「失敗を楽しみ、愛でる」という境地まで行くことができれば人生はとても豊かになる。
まとめ。どうして学校の勉強はつまらないのか
30年戦争で家族を失くしたコメニウスは「世の中から争いをなくすため、青少年を正しく教育するより道はない」と主張した。その背景は「本来、利己的できある人間は、放っておくと自分の利益のために争い続けるのだ」というホッブズの指摘した世界観がある。
この脅迫概念が現在まで続いている。この不安や恐れを解消するために教育サービス(学校)ができあがり、ほとんどの親は子どもを熟にいれるべきか?しか考えない教育サービスの消費者になっている。
また学校での学びが受け身になっているのは、近代の管理システムのせいである。強力で運営効率が良いパノプティコンを見出し、学校は人々が自ら服従するように機能していると指摘した。
そこからクラスや学年のシステムにより、工場の分業システムを教育に適応した。学校はこのようなデザインになっているので面白くないのだ。
子どもが貧困から抜け出すためには、できるだけ多くの子どもたちに教育を受けさせるべきだ!という信念のもと学校システムは発達していった。その結果「なんのために勉強するのか?」ということが失われていった。テストや試験で合格して良い大学に入る!という手段の目的化が進み、学校は自由な学びの機会を奪うようになった。
また「早く習得する人が偉い」ともてはやされ、効率よく知識を詰め込む教育システムが発達し、合わせて「基礎」という概念も発達した。それを大事なものだと信じる人が学びを型にはめ、学びをつまらなくさせた。
学びは自由でいいし、楽しくあるべきだ。いたずらにルールをつくることをやめ、失敗から学べる環境をデザインすることが重要である。
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冒険の書 AI時代のアンラーニング 要約|秘密を解き明かそう。まとめ
ザ・グレート・エスケープ
人は学校でしか学べないわけではありません。にもかかわらず多くの人が学校でしか学べないと信じ切っている。
学校で学ぶことが正統であり、それ意外は学んだことにはならいと人は考え、とにかく学校に行かなければならないと駆り立てる。
学びは本来、個人の自由な活動であるはずなのに学校はそれを「教わる」という受け身の活動に変えてしまっている。
3つに分かれた悲劇
「遊び」と「学び」はシームレスにつながっていたのに、いつの間にか分けて考えるようになってしまった。
理由の一つ目は、社会における「遊び」と「仕事」の区別である。工業化が進むとは人は労働者として雇われ、客や取引先からお金をもらうために働くことが「仕事」だとハッキリ区別するようになった。結果、生活することでいっぱいになり「遊んでなんかいられない」という状況になってしまった。
2つ目は学校における「遊び」と「学び」の区別である。学校が発達し、そこでの目的は「勉強」になった。しかし勉強ばかりだと疲れるため「休み時間」を合間に入れた。そこで「休み時間は遊んでもいい」という決まりを作ったことで区別がはじまってしまった。
3つ目は「自ら進んでする遊び」と「受け身の遊び」の区別である。「遊び」が「仕事」と「勉強」の反対語になった結果、大人は仕事に、子どもは勉強に疲れたからと、仕事や勉強から逃げるために遊ぶようになった。そして、おもちゃやゲーム、テーマパークなどのエンターテイメント企業が生まれた。
遊びは新しい学びや創造、発見をするための本質的な活動であったにもかかわらず、ただのエンターテイメント消費になってしまった。あそびは暇つぶしであり、そこから学ぼうとする姿勢がなくなってしまった。
暴かれた秘密
近代以前には「子ども」は存在しなかった。「子ども」という概念は発明されたのだ。「子ども」の発明とは、大人と子どもの間に線が引かれたことを意味する。同じような線は「仕事」「遊び」や「公」「私」の間にも引かれていった。そしてこの区別が人間の生活を貧しくさせた。
タブラ・サラ
子どもたちに学習させる前に身に着けさせるべきは習慣。興味や好奇心を刺激することで、学習へと向かう姿勢や習慣を身に着けさせることが大切。学習する習慣こそが教育。
自ら学習する習慣を見に付けてしまえば、知識は後からついてくる。
人の心が白いキャンバスなら様々な美しいものを描きたいと思うのは自然のこと。つまり親は子どもになんでも経験させたがる。塾や習い事で予定をいっぱいにして結果的に親も子どももどこか苦しむ。
子どもは子ども
もともと人間は満ち足りている純粋な精神の持ち主だった。しかし、文明を作っていくうちに個人や土地やお金の財産を持つことを認めるようになった。それにより不平等が起こった。
不平等が広まると、強者と弱者の対立が強まり、人間は本来の良さを失い、周りの目を気にしながら生きる社会の奴隷となった。こんな社会に子どもを投げ出すと歪んだ人間になってしまう。だから、ある年齢までは社会と離して補語する必要があった。本来の人間のあり方を引き出すこと。それが教育だとルソーは考える。
教育とは、自分の体を自分の意思通りにコントロールする技術を身につけることなどだ。子どもたちが堕落した文明に染まる前にしっかりとした人間性を身につけることこそ教育だ。
子どもの特別さに注目して教育を行うことが民主主義社会をつくりあげるための一歩であり、最終到達点でもある。
この思想を受けて労働で苦しめられている子どもたちを工場から救い出して学校を作った。「世界で初めて子どもの学校を作った人」と言われている。
ケン・ロビンソンはルソーの言葉を次のように語る「庭師は植物を育てない。庭師のしごとは、花が咲く条件を整えることだけだ」
子どもを書物でいじめるな
ロバート・オーウェンは1816年に学校を設立した。1〜6歳までを対象にした幼児学校だ。社会を良くするために一番良い取り組みは教育、特に幼児教育だと主張した。
学校の目的は悪影響から子どもたちを守り、上質な生活をさせること。より良い生活を送れば、よりよく成長するはずだから。
守られる存在にサヨナラを
ロックは「人間はまっさらなタブラ・ラサだ」と考え、「子どもたちに無理やり勉強をさせないで、彼らが自ら進んで学ぶ習慣をつけること。それが教育」と言った。「子どもが特別な存在」と認識されるキッカケになった。
ルソーは「自然人として生まれてくる子どもを、文明社会の中でゆがめることなく育てることが教育」と言い、子どもがいかに特別な存在か理論化され、子どもと大人が区別された。
オーウェンは「小さいころから良い環境を与えることにより、良い人格がつくられる」という考えにより世界初の幼児学校をつくり、現在の学校のモデルとなった。
教育を変えるには、子どもの見方を変えるところから始める。子どもを子ども扱いしないのはもちろん、人間にあるのは一人ひとりの個性で、それを愛でるだけでいい。興味や好奇心を持った人があつまり一緒に学び合う多様な場があればいい。そうすると「学び」は再び「遊び」に戻れるのです。
まとめ。どうして「遊び」と「学び」や「仕事」を区別する考えが浸透したのか?
学校の勉強がつまらない理由は「学び」から「遊び」が切り離されてしまったから。また「子ども」が「大人」と分けられたkとおも要因。
ロックは子どもをまっさらな板にたとえ、学びの良い習慣をつけさせることが教育だと言った。ルソーは子どもが単に小さな大人ではなく、特別な存在だと新しい意味を見出した。「子どもは学校で保護されて教育を受けて育ち、社会で活躍する準備をする」
「大人」「子ども」の間に線が引かれると「遊び」「学び」「仕事」も分けられ、「公」「私」の間も線が引かれた。それにより人は生活を貧しいものに変えた。
線が引かれた理由は産業化が進んだためであり、それは人々を専門家になることを求め、細分化させた。
お金を稼ぎ続けるために面白くない仕事をして人生の大半を過ごし、将来に不安を感じながら生きている。それにより「学び」から「遊び」が取り除かれるようになった。
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冒険の書 AI時代のアンラーニング 要約|考えを口に出そう。まとめ
能力という名の信仰
「能力」とは「知能」を測る「知能テスト」が一般に広まったことによって生まれた統計的な概念である。ただの統計の数字でしかない「能力」をまるで存在するかのように考えるようになった。
その後「IQ」を測るテストができ、「知能」という概念が生まれた。
産業社会の特徴は「分業」である。専門性を磨くことで成長してきた。そして優秀な能力を持つ人は高い給料をもらうことができ、そうでない人は安くて当然だと考えるようになった。
勉強とはこの能力を高めるために行う活動にほかならない。そして能力がないと社会からはみでてしまうという恐怖が生まれるようになった。
循環論法のトリック
「能力」とはあくまで「結果論」であり、同じようなことをしている他の人の比較になっている。結果が良ければ「あの人は能力がある」、結果が悪ければ「能力の低いイマイチな人」と言っているだけ。
「行動した」→「良い結果が出た」→「能力が高い」という順番で評価をしている。この順序を逆にして「努力して能力を高める」→「良い結果がでるはず」→「能力が高まったら行動しよう」と考えるようになった。しかし逆順は必ずしも成立しない。努力して能力を高めても良い結果がでるとは限らない。にも関わらず多くの人が能力を上げれば結果がでると信じている。
機械が登場し、人間の変わりに働くようになった。しかし、これを扱うのは人間だ。システムを管理し、機械を操縦する。すると人間も機械の一部のように働き続けるようになった。そして、機械は古くなれば交換されアップデートされていく、それに合わせて人間も能力をアップデートし続ける必要があった。人間のたいへんな労働から解放するために作られた機械が、結果として人間を奴隷にした。
才能は百害あって一利なし
人間のすべての活動は本来、好きだから楽しく真剣にやっているだけで十分なはず。なのに熱意や努力ではどうにもならない才能や適正、素質を持っていないものはやってもムダ。という考えが人のやる気を奪っている。
能力という信仰も才能という迷信も結局は人に対する評価の話。
評価は人から自信を奪う。そこが最大の問題であることは誰もが認めるが、評価はしなくていいの?と聞かれると黙ってしまう。
優劣のラインを越えて
デール・カーネギーは「アプリシエーション」というキーワードを繰り返し使っている。ある人や物をきちんと理解する、という意味。相手の良いところを理解してほめるというあたたかいまなざしがある。
何かに触れて、わきあがった感情とその感情が生まれるプロセスすべてを指し示す言葉であり、それが「在る」ことがいかにありがたいかに意識を向けている。
人は誰しもアプリシエイト(感謝)されると、がんばろうという気持ちになる。
ひとつの基準で結果を評価するかわりに、その発想そのものや創造のプロセス全体を愛でるアプリシエーションがあればいい。その姿勢が成果に対する尊敬はもちろん、それを行った人への愛情と感謝を生む。
アプリシエーションが励みになり、生まれた新しい挑戦がさらなるアプリシエーションを生む。そして、多様な良さを認め合う社会が生まれる。学びの場はこうであるべきだ。
I+E=M
社会における人間の地位は、生まれなどによって決まるのではなく、その人の能力によって決まるべきである、という考えがある。そのような社会を「メリトクラシー」と呼ぶ。これはマイケル・ヤングが使った言葉だ。
ヤングの小説で「知能 Intelligence」に「努力 Effort」を加えたものが本人の持つ「実力 Metrit」であると定義した。実績で地位や報酬が決まる平等主義が広がっていった。
努力は誰でもできるものだから、みんなが努力すれば最終的にみんなの能力が高くなり、幸せになると信じた。
しかし、これは絵に書いた餅で実際にそんな社会は実現しないどころか公平性が悪化している。
努力なんか身につけてどうするの?
自らアップデートを続け「優秀な機械」になろうとする人間は、遅かれ早かれ「メリトクラシーの最終兵器」である人工知能にとってかわれる。
しかし、そのことを恐れるよりも、人工知能は人間を機械として働くことから解放してくれる「メリトクラシーの解放者」と考えればいい。
異なる点と点を結ぶ
この社会は能力を高める努力しない人を責める。自分よりも能力が上の人たちをうらやましく思い、自分より能力が下の人たちをさげすみ、自分と同列の人たちに「ぬけがけは許さない」とプレッシャーをかける。いつも誰かの評価にビクビクしながら生きないといけない窮屈な社会。だからメリトクラシーはよくない。理由は5つ。
- 学びから遊びが分かれて、どっちもつまらないものになってしまったこと
- 能力や才能という概念がやる気や自信を失わせてしまうこと
- 能力信仰やメリトクラシーがドロップアウトを生み出しやすい原因になっていること
- 本来は必要のないペシミズムにおちいった不幸な子どもたちが生まれ続けること
- 最終的にはほとんどの人のしごとが人工知能にとってかわれてしまうこと
まとめ。どうして学力を高めないといけないのか?
学力を高めなければならないのは、親がそう子どもに求めるから。その裏には能力という概念んがあり、能力がないと自分の子どもが一人前にならないという思い込みがある。
能力を高めれば幸せになれる、という能力信仰が、学力を高めないといけない原因だっあt。
もともと知能指数は知的障害者を見分けるために作られた。しかし、悪用されるようになり労働者をふるいにかけたり、やる気を出させるために使われるようになった。そして人は幸せになるために能力を高める必要があると信仰するようになった。
能力信仰をゆるぎないものにする役割を果たしているのが学校だ。
しかし能力は実態のない無意味な概念であり、能力はあくまで結果論であり、相対評価でしかない。そうではなくアソシエーションという励みがあればいい。
まとめ。どうして子どもは夢中なまま大人になっていくことができないのか?
根本原因は能力によってその人間のちいが決まるメリトクラシーがある。メリトクラシーの問題はできない人がどんどんドロップアウトしてしまうこと。
能力信仰と自己責任がメリトクラシーを形成し、人々を分断し不幸に追いやっている。学校はその信仰を強化し、その結果で学校の勉強はつまらなくなった。
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冒険の書 AI時代のアンラーニング 要約|探究しよう。まとめ
車輪の無意味
何の役にも立たず、意味のない車輪。それは「意味がない」という一点において、私たちに「意味を見出すという意味」を提示し、結局のところ私たちの役に立っていた。
考えてみれば、役に立つかどうかは、ひとつの基準からしか見ていないことが多い。それはものの見方として貧しいとも言えるだろう。そして、そこに新しい意味を見出すことができるのが人間の持つ可能性である。
無用之用
人は「役に立つか立たないか」という、せまいものの見方しかできない。一見役に立たないと思われているものが、実は大きな役割を果たしている事があるのに、人はそういったものには全く目が向かない。つまり、役に立つか立たないかは見方次第であり、この世の中に役に立たないものはない。
一度役に立たないと判断してしまうと、秘めた可能性に目もくれず切り捨ててしまう。実は、ムダや余白を残すことが大事なのである。
悪人正機のカミソリ
自力に頼る善人でさえもポテンシャルがあるのだから悪人にはさらに成長のポテンシャルがある。
善い行いをしようと強く思っている人は、他人にも善い行いをさせようと落ち着ける。そして善い行いをしない人はひどい目にあっても仕方ないと考えている。その考えは決して善くない。
答えるな、むしろ問え
本質的に問い続け、その問いを深める行動を取るうちに、結果として問題が解決することがある。このような状況をイノベーションと呼ぶ。
いままでは「問題」があり「解決策」を考えてきた。しかし、これからは「問い」を考え「行動」し、「新しい問い」を考え「新しい行動」をすることで結果として解決することがある。
「良い問い」を立てることが重要。
つくるとわかる
私たちは、検索サイトやSNSのアルゴリズムによって自分が見たい情報しか見えない「フィルターバブル」と呼ばれる閉じた世界で過ごしている。ユクスキユルは「環世界」は、このような時代が来ることを100年以上前に予見していた。
環世界が違う人たちは、まったく違った意見を持っている。そんな人々が分断された世界でお互いに通じ合うには「つくる」と「わかる」という「機能環」を回すことで学びを深めともに作ることで通じ合っていくしかない。
伝えたいことがあるけど言葉でうまく伝えられないから、わかってもらうために「つくる」。つくることにより自分が一番理解し、以前よりも相手に伝えられるようになる。そしてまたつくってみると「わからない」が生まれる。そのわからないを、わかるためにつくる。この循環が「機能環」。
そして、この機能環で何か解決をしたら、それがイノベーションとなる。
専門家と素人
多くの学校は「役に立つ人材」を育てよう、スペシャリストを育てようという傾向がある。しかし、そうなると専門外のことは知らない人が生み出される。
社会問題は様々な要因がからまりあっている。専門教育だけを受けてきた人が役立つとは限らない。むしろ幅広い知識を持っている人が必要とされる。だから「素人」の斬新な発想こそ大事にされる社会を築くべきではないだろうか。
まとめ。どうして好きなことだけで生きていけないのか?
世の中に役に立たないものなんかない。ものの見方を変えて自分が変われば意味はいつでも変わる。その結果、なにが役立つかわからないから、ただひたすら楽しむ姿勢が大事。
にも関わらずそうできないのは、能力信仰が浸透したメリトクラシーに染まっているから。だからこれまでの常識を捨てて新しい意味を見出していくことこそ、学ぶという本当の意味になる。
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冒険の書 AI時代のアンラーニング 要約|学びほぐそう。まとめ
親の言うことは聞くな
アンラーニングとは、自分が身につけてきた価値観や常識などをいったん捨て去り、あらためて根本から問い直し、その上で新たな学びにとりくみ、すべてを組み替えるという「学びほぐし」の態度のこと。
現状を捨てることで「どうしてそうなのか?」「なぜそうなったのか?」とルーツをたどる探究の旅に出られます。
まずは素朴な疑問に目を向け、そこから新たな問いが生まれ、それを深く考える、そして手を動かし、その過程で気づいた思い込みや常識は疑いましょう。
物事にはいろいろな見方がある。事実を知り、自分にはない見方を学ぶ。
他人の言うことは鵜呑みにせず、どんなえらい人が言ったことでも正しいとは限らない。
だから誰かが言ったことをすぐに信じるのではなく、自分の頭で考え、自分の心で感じ、行動し、体全体をつかつて判断することが大事。
なにがしたいかわからない?
やりたいことは特にない、という人たちはやりたいことの定義を「お金になるようなことの中で、自分がしたいこと」と限定している。資本主義の中で自分たちを「商品」として扱っている。
そしてギブ・アンド・テイクのような等価交換の考え方は、一見公平なようで冷たい世界をつくる。なにをするには自分の価値と、その見返りを求める社会になってしまう。
そして、その価値観が「自立」という考えを生み出した。それは誰にも頼りれない無縁社会をもらたらした。自立してこそ自由が手に入る。この考えに影響された若者たちは、自分が本当はなにがしたいのかわからなくなってしまった。
ギブ・アンド・ギブン
自立とは依存しなくなることだと思われているが違う。依存先を増やしていくことが自立なのである。AがいなくてもB、Cにも頼れるから生きていけるが自立。
人間の本性はお互いになにかを贈ったり、分け与えあって生きる存在。私たちは与えることで与えられるギブ・アンド・ギブン。そうすれば社会はうまく回る。
もし明日死ぬとして
明日死ぬとして子どもにどんなメッセージを残すか。それは「世界は自ら変えられる」。
結局のところ、親が子に望むのは「幸せに生きてほしい」ということ。つまりこの問いは「幸せとは何か?」という問い。
自分の人生をいきいきと生きてほしい、すなわち自分の人生を自分の意思で生きるような、子どもに育ってほしい。希望を持って自ら切り開いて欲しい。
世界を変える魔法
マハトマ・ガンジーの言葉がある。世界にあるすべての傾向は自分自身の中にある。自分を変えることができれば世界も変わる。自分の性根を変えた人間には世界も態度を改める。これこそが教えの極意だ。こんな素晴らしいことはない。幸せはここからはじまる。
対話を通じて自分が変わることで、相手が変わり、社会が変わる。それが世界を変える魔法だ。
螺旋に連なる小さな弧
人間として善く生きるとはどういうことか?人々にとって公共の利益とは何か?
この2つの問いが「教育とはなんのためのにあるか?」「学校の存在する意義はどこにあるか?」を考える上で重要である。
そしてすこやかな地球を守るために世界を変えていくことが人間にしかできない仕事だと気づいた。
その志を持つ個人に対してあらゆる支援をすることが教育の目的であり、みんなの力を合わせるためにコミュニティづくりの起点となることが学校の存在意義であると確信した。
ライフロング・アンラーニング
価値観や行動様式、思い込みを捨てて、そのうえで新しいものを再学習する姿勢、アンラーニング。
これを生涯続け、世界に新しい意味を見出し成長すること。それが人間らしい生き方になる。
そういうライフロング・アンラーナーが集い、楽しみながら探究を続けるコミュニティをつくり、アンラーニングに望ましい環境を整える。それが新しい学校である。
何事においても初心者であり続けあられるライフロング・アンラーナーは、いつもワクワクしていられる。
後世への最大遺物
この章を振り返ると、まず「何のために教育はなされているのか?」「何のために学校は存在するのか?」の問いがあり、それは「善く生きるとは?」「公共の利益とは?」という2つの問いが根本であった。
そこから教育の目的は「子どもたちが自由に生きる力を身につけるため」「民主的な市民社会の一員として育てるため」の2つ。しかし、生きる力とは結局、能力というフィクションでしかなかった。
実態のないものを目的に教育が行われてきた結果、様々な不幸が生まれるようになった。
このような能力は人工知能にとってかわられるため、このままではどん詰まり。だから教育の目的をアンラーニングする必要がある。
生きる力なんて身に着けなくても、みんな生きているという事実があった。社会に適応できるのが教育ではなく、そんな社会を変えていけるようにすることが教育。
そして少しでも未来を良くできたら、それは「公共の利益」につながる。学校を「社会の一員として必要な資質を身につける場所」から「自分が変わり続けるために行く場」に変える。
後世に何を遺すか?。これが教育に関する究極の問いなのだ。
おわりに
やりたくもない勉強なんかしなくても、しかめっ面して仕事しなくても、未来のことばっかり考えて不安にならなくても、ただ楽しい遊びをとことん追求すればいい。
何が役に立つかはわからないんだから、世の中で良いとされているものに従わなくても、誰かが決めた評価軸に合わせなくてもいい。
自分の好きなことを下方が、自分にとってもみんなにとっても役に立つかもしれない。子どもも子ども扱いせず、大人を大人扱いせず、一緒に作って分かち合えばいい。
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